歴史遺産学科Department of Historic Heritage

三沢城が伊達氏系陣城である可能性
佐藤大輝
宮城県出身 
北野博司ゼミ

三沢城は宮城県白石市に位置する城館跡で、伝承によると南北朝時代に機能したと伝わる。だが現在残る遺構には伊達氏系城館の縄張の特徴と類似する遺構が多く確認できる。また、歴史的事象や立地の関係を加味した上で、三沢城は伊達政宗による白石城攻略の際、白石城に対する伊達方の陣城として築かれたのではないかという仮説を立てた。

本研究では伊達氏系と考えられる複数の城館を調査した上で、それら城館にみられる特徴の分析を行う。その結果を三沢城に現状みられる遺構と照らし合わせ、実態を明かにすることを目的とする。

三沢城を伊達氏系陣城と仮説を立てるにあたり、それを明らかにするために他の城館と比較をする必要がある。比較対象は三沢城が位置する刈田郡内の城館跡と、16世紀半ばから16世紀末にかけて伊達氏の軍事行動が多く行われた地域に所在している城館跡とし、郡単位での分析を行った。調査においては城館の全体像を俯瞰的に確認することができる縄張図(図1)を主な検証材料として活用した。

調査?分析の結果、以下のことが明らかになった。ひとつは三沢城にみられる遺構に、伊達氏系城館において16世紀末に発達した防御遺構である二重横堀(図2)や連続虎口がみられること。もうひとつは、三沢城全体に臨時的性格が強いことである。したがって三沢城は16世紀末頃に伊達氏によって構築された陣城とみるのが妥当であるという考えに至った。

加えて立地や周辺地域の状況も合わせて検証を行った結果、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの幕開けとなった徳川家康の会津?上杉征伐に呼応した伊達政宗の刈田郡侵攻における白石城攻略に際し、伊達政宗の本隊とは別に、当時伊達領であった東の伊具郡方面から刈田郡へと侵攻した軍勢が白石城に対する陣城として使用したのが三沢城だったのではないかと推測した。(図3)この裏付けとして三沢城の縄張りの検討や周辺地域の伝承、他の伊達氏系陣城と領国境目の戦略など、複数方向から検証を行った。

これらの結果を踏まえると、三沢城は伊達氏による白石城攻略の際に築かれた伊達氏系陣城である可能性が高いといえる。

図1 三沢城縄張図(松岡進氏作図に加筆)

2 主郭北面の二重横堀

図3 伊達勢の推定侵攻経路