信夫美月|寺院過去帳に見る新庄藩の死亡構造-接引寺過去帳を事例にー
山形県出身
志村直愛ゼミ
近世の日本社会は、何年かおきに発生する災害によって夥しい数の人々が死亡するという事態を繰り返した。中でも江戸時代に発生した飢饉に起因する農民層の大量死亡はあまりにも有名である。このような人口動態を研究するための史料として、宗門改帳と並んで過去帳が利用されてきた。しかし過去帳は公開上の制約と利用上の厳しい制約という問題を抱えている。そのため歴史人口学において研究史料としての有用性は早くから認められていたにもかかわらず、過去帳の研究利用は停滞してきた。
このような状況を踏まえて、本研究は次のような意義を有すると考えられる。一つは過去帳を用いて死亡構造の解明を試みている点である。江戸時代における死亡者数の把握にあたっては宗門改帳よりも過去帳のほうが有用であると評価した研究者はいるものの、現に研究利用は宗門改帳と比べて盛んであるとは言い難い。したがって本研究で過去帳を取り扱うことに意義はあると言えるだろう。
もう一つは接引寺過去帳(図1)を分析の対象とした点である。新庄藩は飢饉で多数の死者を出し、中でも宝暦5(1755)年から翌年にかけて発生した飢饉は惨状を極めた。その様子は当時の町人によって『豊年瑞相記』に記録されたが、そこには大量の餓死者を一時的に埋葬した場所として接引寺の名前が登場する。よって大量死亡に深く関わる寺の過去帳を死亡構造研究に用いることに意義があると考えられる。また本研究にて取り扱う過去帳は、後述の檀家制度に早い段階から結びついていた可能性が高いこと、寛文12(1672)年から長期にわたり記録が継続していたこと、記録された人数が4,000人超という大規模な集団であること等から貴重な史料と言える。
以上を踏まえ、接引寺過去帳に記録された死亡者を年齢別?月別?性別ごとに分析(図2)し、これを通じて接引寺過去帳における死亡構造の時系列的変化とその特徴、地域的特質を明示することを本研究の目的とする。