済生館(さいせいかん)といえば、多くの山形市民がお世話になっている市内中心部七日町にある市立病院だが、その起源をたどれば、我が国の近代化が起動し始めた明治6年の病院設立。そして明治11年9月の病院本館の完成と、国内でもかなり早い時期に計画され完成を見た、実に147年もの長い歴史を遡ることができる由緒ある病院であることが分かる。そして驚くべきことに、その時完成した本館の建築が、ほぼ当時と同じ姿で市内霞城公園の中に今も存在しているのである。
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時は明治の初期。我が国にようやく西洋の文明が開港地から広がり、物珍しいものとして盛んに受け入れられていた時代。国は国策として西洋に負けない近代化を推し進めながら、積極的に西洋風の建築様式の採り入れに熱を上げ、地方でも大工たちが見よう見まねでこうした西洋風建築に憧れを抱きながら、その再現に挑戦した時代。一方で、基本的な建築技術はまだまだ伝統的な和風が主流である中、和洋が微妙に折衷した、奇天烈な形の建物が街中に現れた。これらは疑似洋風建築、略して擬洋風建築と呼ばれている。
霞城公園の一角に建つ旧済生館本館は、石積みの基壇の上に、立ち並ぶギリシア神殿風の列柱と柱頭飾り。鮮やかな色彩のペンキ塗りで彩られた細長い板材を重ねた下見板張り仕上げの外壁。鎧戸付きの上げ下げ窓、構造的にはほとんど意味を為さない木製の形だけのアーチ窓に、原色の色ガラスを組み込んだステンドグラス。それでいて瓦屋根を載せたり、寺社風の雲形や唐草文風の彫刻が彫られたりと、和風の雰囲気をどことなく残す、不思議な印象の建築である。
初代の山形県令(現在の県知事)となり、山形の近代化、西洋化を積極的に推し進めた三島通庸(みしま?みちつね)の戦略から、県内の郡役所、学校などの近代施設はことごとくこの様式を採用している。このため、我が県は国内でも多くの貴重な擬洋風建築が見られることで知られているが、とりわけこの病院建築は中でもその代表にして、類い稀なる奇天烈なデザインの建築物として目を惹く存在である。山形県内では、明治以後の近代期に完成した建築物としては最初に国指定の重要文化財になった事例でもあり、その希少性から全国的に見ても高く評価されている。
建物完成のわずか2カ月前の明治11年7月、偶然にも日本奥地紀行で知られるイギリス人女性探検家イザベラ?バードが旅の途中に山形に立ち寄り、工事中だったこの病院を見ていた。「大きな二階建ての病院は丸屋根があって、150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になることになっているが、ほとんど完成している。非常に立派な設備で換気もよい」と記している。生粋の西洋人もが認める本格的な病院建築の評価に、三島や棟梁を務めた大工原口祐之、そして工事に携わった300人を数える職人たちの苦労も報われたことであろう。
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公園内で無料公開されている旧済生館本館こと、山形市郷土館の建物には、背後に増設された事務室受付から入館する。塔屋の背後に当たる、本当は十四角形だがほぼ円型に配置され、中庭を囲んだ形の木造平屋の回廊と病室は、横浜のイギリス海軍病院を参考にしたとされる実にユニークな造形である。全室への見通しも効き、回診にも便利な円形の廊下と、厳しい気候の東北にあって、穏やかな陽当たりや通風にも効果的な中庭の構成は、ユニークながら実用的にも配慮された優れたアイデアである。現在は、近代医療や歴史資料の展示空間として公開されている。
この廊下から塔屋部に入る。階段の手すり、木枠のアーチ型の窓に素朴な色ガラスをはめたステンドグラス。明治初期ならではの西洋文明の形を、よくぞ日本人大工が見事に再現できたものと感じ入る。もっとも手すりの親柱に載せられた球形の飾りは、伝統工芸のこけしと同じ轆轤挽きであるから、やはり所々に伝統の技も発揮されているのだが。
壁を伝うように配された階段を上がると、2階は天井の高い十六角形のホールとなっていて、山形市内の歴史建築の資料などが展示されている。パネルに見入ると気付きにくいが、ここは木造建築で直径10mほどの広い部屋ながら柱が1本もない。これは構造的にはなかなか実現が難しい空間で、西洋のトラスの構造と、多宝塔を組み上げる伝統的な日本の技術を合わせて実現できた当時としては珍しいホールなのだ。
その入り口前には木の柱を軸にした螺旋階段が配され、最上階へ向かっている。断面図を見ると分かるが、市民には三層楼と呼び親しまれていたこの建物、実際は4層の建物で、頂上部までは実に24mの高さを誇る。最上階は周囲に半間幅のベランダを巡らせた八角形の小部屋で、360度山形市内を囲む山並みが眺められる、隠れた絶景スポットである。
通常非公開なのであまり知られていないが、この塔屋の板張りの床は、山形県産材の寄木造りになっている。ケヤキ、スギ、カツラ、クロガキ、ヤマザクラ…少しずつ表情の違う県内各地の木材を寄せ集め、県内の人々の健康を守る近代的な病院を彩る演出に、明治の官僚や職人たちのこの病院建設にかけた意気込みを感じることができる。
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今では市民のシンボルとして、公園内の歴史資料館として親しまれている旧本館も、ここに至るまでの道のりは険しいものであった。
ちょうど前回の東京オリンピックが開催された1964年頃、老朽化が進む病院建築の存廃が議論される。こと最新の技術が求められる医療の施設建築は早々に建て替えられるのが常道なのだが、山形の町の文化の象徴とされた旧本館については一旦市の廃棄の決定がなされた後に、保存を求める市民団体からの議会陳情が上げられる。当時の大久保市長により一転解体は中止。文部省の調査を経てその価値が明らかにされ、国の重要文化財に指定されると、霞城公園内に移築保存されることが決まり、1969年12月に移転工事が完了した。今からちょうど50年前、ボロボロになっていた旧済生館本館は、美しく復元され、1971年に山形市郷土館としてオープン、こうした経緯で新しい命が吹き込まれたのであった。
最初に済生館本館が建てられたのは、もちろん現在の七日町。羽州街道から折れた道の正面。現在の済生館病院新病棟の足元にある円形のモニュメントが建つ位置で、今も当時の門柱だけが残されており、往時を忍ばせる。その証となるのが、明治期に撮影されたモノクロ絵葉書の写真である。確かに中央にあの本館が建っているのだが、よくよく見れば、周囲には木造平屋か二階建ての民家や蔵ばかりが建ち並んでいる。当時はまだ江戸時代の城下町の名残を残す七日町。そこには、地上13階建て、500床を超える病院の新病棟や、銀行、ホテル、マンションなどのビル群が林立する現在の町並みからは到底想像もつかない、何とも長閑な風景が写し出されているのだ。
しかしどうだろう、まだ江戸時代から程遠くない当時の城下町に暮らす人々の目から見れば、そんな光景の中、突如姿を現したこの見るも不思議な擬洋風の病院建築は、見慣れた町並み景観の中で、さぞや奇天烈に映ったに違いない。それは、私たちが今日、この建物を見て感じるのと同じ衝撃と言っていいだろう。この建物は皮肉にも、昔も今も奇天烈な建物と評されるさだめに遭っているのだ。しかし、そこには150年の長い時間が流れている。その間、旧済生館本館の建物は、確かに変わることなくこの山形の地にあったはずなのにだ。
変わってしまったのは私たちの側なのだ。明治―大正―昭和―平成―2024欧洲杯官方_NBA赌注app-投注网站推荐…5つの時代を跨いだこの150年の間に、郷土山形の町並みは、ここまで大きく発展し、大きな変化を遂げてきたのだ。より便利で新しい流行の先端を追い求め続け、時代に振り回されてきた私たち。そんな姿を嘲笑うこともなく、繰り返す厳しい気候の変化に耐えながら、閑かに穏やかにそして優しくわが町を見つめ続けてきてくれた、その圧倒的な存在感に、私たちは最大の敬意を払いたい。
このコロナ禍が収まったら、改めてゆっくりこの建物に寄り添って、150年という時の流れが伝える擬洋風建築の風格を、是非とも確かめて鑑ていただきたい。
さて、あなたの目に、旧済生館はどんな風に映って見えるだろうか…
(文?イラスト:志村直愛)
志村直愛(しむら?なおよし)
1962年 鎌倉市生まれ。
東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。
建築?環境デザイン学科教授。
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建築史、都市景観、歴史を生かしたまちづくりが専門。古代から近代まで、日本や西洋の人々と建築を巡る歴史を振り返り、未来に進むべき道を考えます。豊かな歴史の蓄積を活かした都市景観形成やまちづくりを研究、支援しています。また、日本テレビ系列の番組「世界一受けたい授業」にも時々出演しています。
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