TUAD Artist in Residence Program 2006
富田俊明|あなたと生きる喜び
学生リポート1「〈原始〉も〈信仰〉も、みんな身体の中にあるもの?」 後藤拓朗
話は富田さんの静かな語りから始まった。この日は富田俊明展のトーク3日目、舞踏家の森繁哉先生との対談が行われた。富田さんの詩の朗読が終わると同時に、丸太を背負い、くたびれたスーツに帽子という出で立ちの森先生がゆっくりと、自らの歩み、音楽の律動、更には来場者の呼吸までもとりこんで、しっかりと意識する様な足取りで会場に姿を現した。
数分間の舞踏を終えた森先生が着席し2人がそろった時には、テーマとして掲げられた『原始信仰と舞踏』について語り合うのにふさわしい異様な緊張感と、ある種の崇高さを持った場が出来上がっていた。森先生と富田さんの2人は何か共通した、曖昧なもの、割り切れないものに対しての信頼、それはまさに信仰というものに繋がるのだろうが、そこに未知ゆえの豊かさというものの存在を感じているように思う。
トークは森先生の身体論を中心に、舞踏とアートの関係や、夢と身体の話など様々な話題が生まれていた。「ここで富田さんと話をしているということも、精神的な傷も、日常の全てが自分の身体に影響し、ダンスというものと直結する」。森先生は自分の中に「アートを抱えたためしがない」と言う。「ダンスは“アート”と向き合う事からは発生しない、日常と向き合い、自らの身体に含まれている太古からの時間と空間の圧縮された密度を感じること、それぞれの『個』に立ち返ることで生まれるもの」であると。
聞いていると、どの話も何か「語り得ないもの」へのアプローチであったように思える。それは人によっては不毛なものであるとか、語り得ないものを語ろうとする事の自体の矛盾を感じるのかもしれない。しかしその場では、何かリアルなものへ近づこうと、複数の視点から自分にとっての真実の様なものを見出そうとする2人の、自らの生きることに対する妥協の無い、真摯的な態度が語る事によって明らかになり、来場者は2人の朗読、舞踏、複数の語りを通して、それぞれにとっての根源的な生や死について考えをめぐらせたのではないだろうか。
1時間ほどのトークのあと、森先生は再び踊り始めた。開会の時とはうってかわって速い律動の中で自らの身体を躍動させ、気管に木の塵が入り込むほど激しく丸太を打ち続け、私は自分が散らされる様な痛々しさを感じつつも森先生の身体から目を離す事はできなかった。その舞踏に『死のにおい』の様なものを感じたという富田さんは、自らを5年間苦しめた修験道での体験を語り、その場に自ら葬った。
こうしてトークは終了した。トークのあと森先生の背負っていた丸太が「死体にしか見えなかった」と言った人がいたけど、私もそう思う。
[洋画コース研究生]
学生リポート2「〈二重体〉〈泉の話〉を読む」 竹田佳代
3日間にわたる読書会は、富田さんの著書『泉の話』『二重体』を読み、気になる箇所についてお話を伺った。
『泉の話』は、地元の人々への取材を通した会話のやりとりがつづられている。文法にのっとっていない話し言葉の語感や、年配の方の微妙な発音など、インタビューの話の仕方をそのまま生かしたいと、文字に起こす時には細かな注意を払ったそうだ。断片的に選出され編集されている‘やりとり’は、文面からだけでは伝わりにくい感触があり、その前後の状況を富田さんが解説して下さって繋がりを感じる部分があった。経緯を知らされたほうが読者として照らし合わせて何か気付く部分が増えて、より面白いアートブックになるのではと思った。
『二重体』は、「ふたりはふたりの記憶を同時に記しはじめた。(そこにどんな世界が)」というテーマを添えた、この作品の根本となるビジョンのメモから始まり、南中国旅行時のエピソード、対談で構成されている。対談の後半の、二重体(富田さんの造語)のビジョンが例を挙げて明かされていく過程がとても興味深い。
そのほかに、『幻影の人』と名付けられた自分の中に潜むもうひとりの神秘的な人間をめぐる詩のテキストと、ブッシュマン(南アフリカ原住民)との道中記『カラハリの失われた世界』の一部を抜粋したテキストも配付された。テキストを叩き台として、参加者たちから富田さんへの質問は、学生時代の制作意欲や、旅が自分にもたらすものについて、アーティストの定義や社会性について繋がっていった。
最終日にはまとめとして、1人ひとつの話を持ち寄るストーリーテリングの会が行われた。話し手は時間を気にせず語りたいだけ語って良い。そして約束事として、聞き手は合いの手を入れないで話を聞くのに徹すること、の2点が伝えられた。富田さんはpresenceという言葉を引き合いに出し「ここに存在してこの場所に参加していること自体に意味があるんだよ」とおっしゃった。表立って教化しようとせず、終着点ではなく純粋に一歩先を探求するような富田さんの持つ独特なテンポは、私たちまでをも無防備にし、また全肯定してくれていたと思う。
迎えたワークショップ最終日。
図書館2階studio144に集まったのは富田さんを含めて12名。会場作りをする人の中からは談話がきこえた。学科も様々な参加者たちは、顔見知りの間柄になりつつあったものの、円形に板付くと皆の空気を読もうとする様に沈黙した。誰かが話し始めるのを受け入れる準備をして、自分の器を開いて待機している沈黙。どのタイミングで自分の話を切り出そうかと探り合う沈黙。重苦しくはないが、こんなに沈黙が続いて良いものかという程の不思議な時間が流れていった。例えば、音楽会で演奏が終わったら拍手をする、という一定のルールを知らないで時間を止めてしまったように、あるべきアクションが失われているように感じた。
1人が語り始めた。余韻が十分になると、また1人が語り始めた。伝えられる話の内容は、過去に自分に起きた出来事や日々暮らしながら思うこと。彼女/彼らが今現在の自分に至るまで、胸の奥底や裏に秘めていた想いを語る姿に、声となった答えは返ってこないが、確かにこの空間に居た人たちの胸を借りて、返ってくる気配を注意深く感知して自分の速度で語っているのが分かる。日常の会話をする空間とは違うこの場所だからこそ語られた話を聞き、その人の心の内とその場所が対話する貴重な空間に立ち会えたと私は思っている。このような機会を作って下さった方々に深く感謝します。
この度のワークショップでは、やりとりの中からあるひとつの事実を作り上げていこうとする心持ちや意気込みが必要だと思って参加していたが、あらためて私自身の発言力や物事を考察する時の知識の後ろ盾の乏しさに気付くきっかけとなった3日間でもあった。好奇心が向かう先を理解したいと願う時、傍観者になり黙ってしまっては何も始まらない。心の内の風景を解き明かすにも、人と何かを共有するにも、言葉による追求はとても大切なことだと思った。
[工芸コース3年]
上:展示風景|『二重体・城隍廟の碑文の写し』富田俊明+辻耕/studio144
下:展示風景|『我我の家郷迄来て見ることができますか?』富田俊明/studio144